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2010年1月22日 (金)

死ぬと言うこと

今日、妻は友人の葬儀のため名古屋へ行っている。

その人は妻の親友で2,3年前から白血病で入退院を繰り返し
様子は思わしくなかった。2月にはお見舞いに行く予定でいた。

その知らせを受けたとき妻は激しく声を上げて泣いた。
あんな姿を今までに見たことは無い。

覚悟はしていたこととは言えいざその時となると辛かろう。
万感の思いが感情を爆発させたのだろう。
良い友を失っての悲しみは私には分からない。

私は4人の親を亡くしているがいずれも病気で亡くなっているので
準備をする時間がありそれはそれとして受け入れるしかなく、悲し
いには違いないが葬儀のやり繰りに追われて時間が経ってしまう。

多分私が死んでも泣く人は居ないだろう。
妻も子供もすんなりと受け入れるだろう。

ましてや泣いてくれる友人は居ない。それで悲しいわけではない。
死んだ後のことまで気にすることは無い。

それでいい。

2,3日前に妻と自分が死んだ時の葬儀の話をした。

私は何もやってくれなくていい。
ただ生命が終わるだけで特別なことではなく自然の摂理だ。
それを坊主と葬儀屋を儲けさせるありきたりの葬儀で済ませて欲し
くない。今流行の「直葬」でいい。どうせすぐ忘れられてしまう。

妻は遺族に任せる、と言った。
どういう風に葬って欲しい、と言う希望は無い。
残された人の意志に任せると言う。

それは無責任だ、と私は言った。
自分の死後についての始末はしておくべきだ、と思う。

近々、死は訪れる。
自分はどんな死に方をするのかすごく興味がある。

妻より先に死ねるのか。
寂しく一人で生きるのか。

高齢者社会で老人が邪魔な存在になっても医学の力で長生きさせる。

どうしたら気分良く死ねるだろう。

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